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島根県浜田市にある教会です。

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
ルカの福音書23章39節



今、NHKの大河ドラマで八重の桜が放映されている。
同志社大学創設者、新島襄の妻、新島八重が主人公である。
明治の初め、キリスト教の学校を造るために新島夫婦は奔走する。
キリスト教のプロテスタントが伝えられて150年以上が経っている。
カトリックにおいては460年以上が経過している。
それでも日本のクリスチャン人口は現在1パーセントもない。
世界でも屈指の伝道の難しい国が日本です。
その一方で結婚式のスタイルはキリスト教を選ぶ人が多くいます。
日本は不思議な国です。
一体その答えは何処にあるのでしょうか。
日本は仏教の国だから、日本は神道の国だから等々・・・・・・・・。
そうでしょうか。

私が考えるに1つは、キリスト教はご利益宗教でないというのがあると思います。
何処どこ神社にお参りに行く。
何処どこのお寺にお参りに行く。
そこには何時もご利益への期待があります。
自分の都合の良い時間に自分の好きな事をお願いする。
自分にとって都合の良い利用できる宗教です。
ところがキリストはご利益宗教ではありません。
キリストは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と仰いました。
キリスト教は従う宗教なのです。だから人々は嫌がるのです。

もう1つの理由は、キリスト教は悔い改める宗教だからです。
キリストが十字架に付けられた時、右と左に強盗が同じように十字架に付けられました。
ところが一人は救われましたがもう一人は救われませんでした。
それは、一人は悔い改めたのですがもう一人は最後まで悔い改めなかったからです。
悔い改めるというのは「心を変える」という意味です。
神に背中を向けて生きていた者が神の方向を向いて生きることです。
日本にキリスト教が広まらないのは日本人が悔い改めをしないからです。
日本人は心を変えて神に付いて行かないで何処までも神を利用したいのです。

それでも教会は素晴らしい福音を伝え、信仰者は素晴らしいキリストを証する者でありたいです。
それだけが日本にキリスト教を伝える方法だからです。

あなたに神の祝福と守りがありますように…


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2013.10.08 / Top↑
「また、女の人が銀貨10枚を持っていて、
もしその1枚をなくしたら、
灯りをつけ、家を掃いて、見つけるまで
念入りに捜さないでしょうか。」 

ルカの福音書15章8節


長男が子供の頃、川で捕まえてきた小さな亀を飼っていました。
ある時その亀が部屋の中で居なくなりました。
家族みんなで捜したのですが見つかりません。
長男はしょげていました。諦めかけていた時、押入れの戸の隙間にいたのが見つかりました。
皆大喜びしたことを思い出します。

 一枚の銀貨を失った婦人の物語を読むとその事を思い出します。
婦人は夫から結納として10枚の銀貨を貰ったのです。
当時の習慣としてそれを首飾りにして大切に持っていたのです。
その大切な一枚が無くなったから必死に婦人は探したのです。
キリストが言われている一枚の銀貨とは私たち人間のことです。
婦人とは神様のことです。

① 居場所に居ない
一枚の銀貨の居場所はタンスの上でも、台所でもありません。
首飾りとして婦人の首が居場所でした。
私たちの居場所はどこでしょうか。家庭であり、ある時は学校、また職場です。
それは実際生活の場所です。しかし、霊的な居場所は神様のそばです。
そこが私たち人の居場所なのです。
私たちが神のそばに居ない時、一枚の銀貨と同じように失われた状態なのです。
その状態を聖書では「的を外す」、「罪の状態」と言うのです。
私たちは居るべき場所に居るでしようか。

② 自分で帰ることが出来ない
婦人は灯りを点け、家を掃いて丁寧に探しました。どうしてでしょうか。
一枚の銀貨は自分の力で元の場所に戻れないからです。
私たちの居るべき場所は神のそばです。
でも、私たちの力や努力では神のそばに帰ることが出来ないのです。
ある人は滝に打たれて神のそばに行こうとします。
ある人は苦行をして神のそばに帰ろうとします。
ある人は冨を持つことによって救いを手に入れようとします。
同じことなのです。
私たちは自分の力や努力を止めて神の子キリストを信じ、
十字架によって罪赦されて始めて神のそばに帰ることが出来るのです。
私たちの居るべき場所は神のそばなのです。
あなたは今、神のそばに居られるでしょうか。
神は今もあなたが帰って来るのを待っておられるのです。
2013.04.20 / Top↑
イエスは彼らにこう言われた。
「全世界に出で行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

マルコの福音書16章15節


梅の季節を過ぎ、桜の季節を迎えようとしています。
卒業式を終えて新しい学校の入学を前にしておられる方、4月から新入社員として
社会に出て行こうとされている方、それぞれが不安と期待の心でおられるのではないでしょうか。

春は別れの時であり、同時に新しい何か始まる時でもあります。
今、どんな事に希望を膨らませておられるでしょうか。

私たちの教会はインマヌエル綜合伝道団という教団の中の一つの教会です。
先日、全国のインマヌエル教会の牧師達が集まる年会が開かれました。
年会というのは1年に1度行われます。それは牧師達が1年に1度、研鑽と霊的に整えを頂いて
新しい任命を受ける時です。
ですからインマヌエル教会の任期は1年で、毎年新しく任命を受けている訳です。
私と家内は浜田教会に今年度も任命を受けました。
14年目になります。私たちの思いは「今年度も神様から浜田に使わされた。
心新たに一年間ご奉仕をしたい。」そんな気持ちで帰って参りました。

私たち牧師のする仕事は多岐に亘りますがその中心は福音を伝えることです。
日本も世界も変化し、人間も変化してきています。
そんな時代にあっても牧師達のすること、教会のすることは福音を伝えること、
キリストの救いを伝えることに尽きます。

新しい年度も多くの人に福音を伝え、証が出来たらと考えています。

そして多くの方々と喜び神を賛美したい、そんな1年にしたいと願っています。
お祈り下さい。

2013.03.30 / Top↑
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ
だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 

ヨハネの福音書14章6節

日本人の殆どは個人的には無宗教です。
しかし、家の宗教はと聞かれると殆どの人が「仏教です。」と答えます。
それはお葬式を仏式でし、お盆や法事等をするからでしょう。

例えばお盆を取り上げてみましょう。正式には仏教では
お盆祭りと言いますがお盆祭りを正確に知って行っている人がどれくらい居るでしょうか。
お盆祭りは極楽ではなく餓鬼道(苦しみの場所)に落ちた先祖を
1年に1度お迎えしてご馳走して慰める祭りです。
一見ご先祖を大切にした、とても美しい風習に見えます。
しかし、折角お迎えしたご先祖達に何時までもいてもらっては
実際には困りますので3日後に送り火や灯篭流しなどをして
先祖の霊を元の世界(餓鬼道)に送り返すのです。
先祖の霊を供養しているようであって実はこの上ない
失礼なことをしているのです。
でもこのことを殆どの人が知らないでしているのではないでしょうか。
それが日本人の宗教の実態です。知らないでしているのです。

イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」
とはっきり仰っています。キリスト教は難しい宗教ではありません。
神であるキリストが私たち人間の罪の身代わりに死んで下さり
3日目に甦って下さったことを信じるところから始まります。
そして信じた者はどんな人でも罪が許されて永遠のいのちが与えられるというのがキリスト教です。

私たちは本当の道、真理、いのちを知る必要があるのではないでしょうか。

2013.02.21 / Top↑
「こういうわけで、いつまでも
残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。」

 第一コリント13章13節


新年が明け私たちは新たな歩みを始めています。
そんな私たちに必要なものは何かを考えるとパウロが言っている信仰、希望、愛ではないでしょうか。

  1. 信仰
    パウロは一番最初に信仰を挙げています。
    これはたまたま一番に挙げたのではありません。
    人間が生きていく上で「信じる」ということが土台だからです。
    人間の信じる力が一番強いのは赤ちゃんの時です。
    お母さんに抱かれてスヤスヤと眠っている赤ちゃんは100パーセントお母さんを信頼しています。
    ところがだんだん大きくなるにつれて人を疑う力がついてきます。
    でも人間は100パーセント信じることの出来ない時、疲れてしまうのです。
    奥さんを信じることが出来ない、主人を信じることが出来ないと疲れてきます。
    しかし、どんな人でも人間を100パーセント信じることは出来ません。

    パウロが言っている信仰とは神を信じることです。

    神は100パーセント信じて生きることが出来るお方です。
    人が生きて行こうとする時、どうしても100パーセント信じるお方が必要なのです。

  2. 希望
    人が生きるのに二番目に必要なのは希望です。
    希望を抱いて生きている人は困難に囲まれても輝きを失いません。
    私は神学校を卒業して鳥取に遣わされました。
    土曜日の夕方、自転車の前の籠にハンドマイクのスピーカーを置いて
    「明日は日曜日です。教会学校があります。来て下さい。
    礼拝が朝の10時半からあります。来て下さい。」
    と教会の周りを毎週案内していたのを思い出します。
    借家の小さな教会でしたので何とかそんな教会に沢山の人に来て頂きたいという希望に溢れていました。
    希望の少ない時代かもしれません。
    私たちは今年どんな希望を持っていますか。
    希望がある時、困難に囲まれても輝きを失いません。
    パウロは本当の希望を神においていた人です。

    あなたの本当の希望は何ですか?


  3. 愛というのは私たちが生きていく中で一番前面に出ます。
    信仰は土台であるために表にあまり出てきません。
    でも愛は私たちの生活の表面に出てきます。
    だからパウロは「その中で一番すぐれているのは愛です。」と言っているのです。
    人は愛することを通して、愛されることを通して生きて行けます。 
    愛する人が一人もいない、そんな家族や友達が誰もいない時どれだけ生きていくのが辛いでしょうか。
    また、誰からも愛されていないと思っている人は生きるのが難しいでしょう。

    「ちいロバ」という榎本保郎先生の伝記の漫画がありますが
    、その中で榎本青年がお寺の和尚さんに「僕、自殺してもかまいませんか。」
    と相談するところがあります。
    和尚さんは「ハッハッハ、余程の悩みがあるのやなあ。そうやなあ。
    死ぬのは何時でも出来るが死ぬ覚悟で何かやってみることも出来る。
    どちらにしますかね。どちらにするか決るまで、ここで頭を丸めてゆっくり考えなさるか?」
    榎本青年は「ハイ、僕をこのお寺の小僧にして下さい。お願いします。」と言います。

    和尚さんの愛が見えます。その愛に動かされた榎本青年がいます。
    だから生きて行けたのです。

    同じように人は神の愛を知り、神を愛する者に変えられて始めて生きる者になるのです。

    今年も信仰、希望、愛を忘れないで生きていきましょう。
2013.01.16 / Top↑