「また、女の人が銀貨10枚を持っていて、
もしその1枚をなくしたら、
灯りをつけ、家を掃いて、見つけるまで
念入りに捜さないでしょうか。」
ルカの福音書15章8節
もしその1枚をなくしたら、
灯りをつけ、家を掃いて、見つけるまで
念入りに捜さないでしょうか。」
ルカの福音書15章8節
長男が子供の頃、川で捕まえてきた小さな亀を飼っていました。
ある時その亀が部屋の中で居なくなりました。
家族みんなで捜したのですが見つかりません。
長男はしょげていました。諦めかけていた時、押入れの戸の隙間にいたのが見つかりました。
皆大喜びしたことを思い出します。
一枚の銀貨を失った婦人の物語を読むとその事を思い出します。
婦人は夫から結納として10枚の銀貨を貰ったのです。
当時の習慣としてそれを首飾りにして大切に持っていたのです。
その大切な一枚が無くなったから必死に婦人は探したのです。
キリストが言われている一枚の銀貨とは私たち人間のことです。
婦人とは神様のことです。
① 居場所に居ない
一枚の銀貨の居場所はタンスの上でも、台所でもありません。
首飾りとして婦人の首が居場所でした。
私たちの居場所はどこでしょうか。家庭であり、ある時は学校、また職場です。
それは実際生活の場所です。しかし、霊的な居場所は神様のそばです。
そこが私たち人の居場所なのです。
私たちが神のそばに居ない時、一枚の銀貨と同じように失われた状態なのです。
その状態を聖書では「的を外す」、「罪の状態」と言うのです。
私たちは居るべき場所に居るでしようか。
② 自分で帰ることが出来ない
婦人は灯りを点け、家を掃いて丁寧に探しました。どうしてでしょうか。
一枚の銀貨は自分の力で元の場所に戻れないからです。
私たちの居るべき場所は神のそばです。
でも、私たちの力や努力では神のそばに帰ることが出来ないのです。
ある人は滝に打たれて神のそばに行こうとします。
ある人は苦行をして神のそばに帰ろうとします。
ある人は冨を持つことによって救いを手に入れようとします。
同じことなのです。
私たちは自分の力や努力を止めて神の子キリストを信じ、
十字架によって罪赦されて始めて神のそばに帰ることが出来るのです。
私たちの居るべき場所は神のそばなのです。
あなたは今、神のそばに居られるでしょうか。
神は今もあなたが帰って来るのを待っておられるのです。
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2013.04.20 / Top↑
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