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島根県浜田市にある教会です。

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み使いは、入って来ると、マリヤに言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリヤはこの言葉に、ひどくとまどって、
これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
 するとみ使いが言った。「怖がることはない。
マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。
あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」

ルカの福音書1章28~31節


2012年もクリスマスシーズンになりました。
町中にクリスマスのイルミネーションが溢れ、スーパーにはクリスマスソングが流れています。
何かワクワクした気持ちになりますね。
この年は私たちにとりましてどんな一年だったでしょうか。

楽しい喜ばしい事が沢山あった年だったでしょうか。
それとも辛い苦しいことが多い年だったでしょうか。


上の聖書の言葉は乙女マリヤに、み使いガブリエルが神の子キリストの誕生を告げる受胎告知の場面です。
その中でみ使いはマリヤに「恵まれた方」と言っています。
マリヤはこの時いいなづけのヨセフと結婚が決っていました。
そんなマリヤが急に妊娠して神の子を宿すということは「恵み」なのでしょうか。
急に妊娠したことをいいなづけのヨセフさんは神の子を宿したと理解してくれるとは思いません。
聖書にはヨセフさんはその事で悩み、内密に婚約解消しようとしたと記されています。 
また、当時のイスラエルの律法では姦淫罪は石打で殺されるという律法がありました。

ですからマリヤさんは石打で殺される可能性もあったのです。
そんなマリヤに対してみ使いは「恵まれた方」、「神から恵みを受けた」と言っているのです。

私たちは「恵み」というとややもすると「良い事」ばかりを想像します。
しかし、神の下さる恵みはどうも私たちが喜ぶことばかりではないようです。

娘が高校受験の時、第一志望の高校に不合格になりました。
その時、悲しんでいる娘の姿を見るのは親として辛いものでした。
しかたなしに次の高校を受験しその高校に入学しました。
その高校は娘に合っていたようで部活をし仲間も友達も沢山でき高校生活を楽しみました。
今考えると第一志望の高校に不合格になったことは神の恵みであったと思います。

私たちは今年一年を振り返って嬉しかったこと、そうではなかったことが色々あったと思います。
それら全部が実は恵みであったと気付く人はそう多くはないと思います。
そのことに気付くお互いでありたいと願いますし、
また、神があなたが今年、経験した一つひとつの出来事を恵みに変えて下さることを祈ります。

良きクリスマス、新年をお迎え下さい。

あなたの上に神の祝福を祈っています。
2012.12.07 / Top↑
「この人が罪を犯したのでもなく、

両親でもありません。

神のわざがこの人に現れるためです。」


ヨハネの福音書9章3節



11月に入り、山々は秋の色で覆われています。

今年も残すところひと月半になりました。

一年の過ぎゆく速さは年々増し加わっていくようにさえ思います。

お変わりまりませんか。



嫌なニュースばかりが流れている昨今、政治や経済にも明るいニュースは

あまりありません。

何か日本の国全体に元気がありませんね。

でもそれは私たちのものの考え方や見方で変わってくるものではないでしょうか。



ある時、イエスさまは弟子たちとエルサレム近くの道を歩いておられました。

そこで、イエスさまは道端で物乞いしていた盲人をご覧になられました。

弟子たちはイエス様に質問しました。



「先生、彼が盲人に生まれたついたのは、誰が罪を犯したからですか。

この人ですか。両親ですか。」



その問いに対してイエスさまは

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

神のわざがこの人に現れるためです。」

と答えられたのです。

なんと希望に満ちた前向きな言葉でしょうか。

ここにイエスさまの見方があります。



弟子たちは当時の人が考えるようにこの人が盲人に生まれたのは

誰かの罪が原因していると考えました。

それは私たちの考えの中にもあります。

障害を持って生れた人がいたら誰かの罪のせいではないか。

果てには因縁やたたりではないか。

そんな考えが今でもあります。

その考え方は、全ての事に繋がっています。

何か失敗すると誰かのせいにしようとします。

自分が悪いのではないか、あの人が悪いのではないか。

すべての考え方が後ろ向きなのです。



イエスさまは弟子たちと同じ盲人をみて、

「神のわざがこの人の中に現れるためです。」

と仰いました。

ここにイエスさまの見方があります。

その人の中の可能性を見ておられ、見方が前向きなのです。



三重県の熊野市という町に、生まれて間もなく脳性小児麻痺になられた

坂内勝さんと言う方がおられます。

話すことも立つこともできない。

身体の自由といえば、耳とわずかに見える目、かろうじて動く両手だけです。

お母さんの忍耐強い努力の結果、字が読めるようになり、

不自由な指で文字盤の文字を指すという方法で

自分の意志を伝えておられるのです。



坂内さんは自分の将来を考える時、いつも不安と言葉で言い表せない

恐怖に襲われたそうです。

そんなある日、彼はラジオから流れてくる声に耳を傾けました。

それは初めて聞く聖書の話でした。



「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」



彼はキリストを信じる信仰に導かれました。

この時から彼は心に重くのしかかっていた不安と恐怖が消えていきました。

そして今は驚くほど明るく快活な人に変わられておられるというのです。



「今一番の願いは何ですか。」



と問いに坂内さんは



「父と母が救われることです」



と仰っているそうです。



神のわざが現れた一つの例ではないでしょうか。



私たちは同じ時代に生き、同じものを見ています。

イエスさまが見られたような前向きな可能性を見る者でありたいものです。

そうすればもっともっと自分自身が楽しくなり、

周りにも希望をもたらすことができるのではないでしょうか。



あなたの上に神の恵みがありますように。


2012.11.14 / Top↑

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、
迫害する者のために 祈りなさい。

      
マタイの福音書5章38~48節




2001年9月11日、ニューヨーク、マンハッタンの世界貿易センタービルは
テロによって攻撃され何千人もの人が死亡しました。テロへの恨みや憎しみは
更なる争いへと拡大して行きました。

アメリカは旧約聖書の「目には目を歯には歯を」という復習の正当性を盾に反撃に転じました。
人間同士、赦し合うということはどんなに難しいかお互いが知るところです。
私たちの社会はやられたらやり返す、それが当然のこととして受け止められています。

「目には目を、歯には歯を」、これは旧約聖書に出てくる言葉ですが、それは「仕返しをする。」
という意味合いよりも「それ以上のことをしてはいけない。」という意味合いが強いのです。
目を傷付けられたのだったら目だけにしておきなさい。歯を折られたのだったら歯だけにしておきなさい。
そこには神の愛と配慮があるのです。
でも多くは「やられたらやり返せ。」という風に理解されています。

キリストは何と言われたのでしょうか。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と仰いました。

1924年パリオリンピックの400メートルで優勝したイギリス人の
エリック、リデルという人がいました。
この人は「炎のランナー」という映画のモデルになった人です。
彼は宣教師に成って中国にいた時、戦争に巻き込まれ民間人抑留者として捕らえられていました。
彼は収容所の中でバイブルクラスを開いていました。
ある時「敵である日本兵を愛することが出来るか。」という議論が持ち上がりました。
「それは理想だ、敵である日本兵を愛することは出来ない。」という結論になりかけていた時、
リデルが口を開きました。「僕もそう思っていた。
でも、イエスの言葉には『迫害する者のために祈りなさい。』という続きがある。
愛せなくでも、祈ることは出来るはずだ。」と言ったリデルは
毎朝早くおきて日本のために祈っていたと言うのです。やり返すことは簡単です。
でも、攻める者のために祈る時、新しい解決が生まれてくるのではないでしょうか。

あなたもイエス・キリストのことばに心を傾けませんか。

あなたの上に神の恵みがありますように。


2012.10.22 / Top↑
平和をつくる者は幸いです。
その人は神の子どもと呼ばれるからです。

マタイの福音書5章9節


今、日本の周りは竹島や尖閣諸島の領有権の問題で連日騒がしくなってきています。
中国ではデモがどんどん拡がっています。
シリヤの国では政府軍と反政府軍の内戦状態が続いています。
少し遡るとアメリカで9、11の同時多発テロがありました。

人間同士の争い、国同士の争いは無くなりそうもありません。
人間は元々争いが好きだとは思いませんが、それならどうして争いが無くならないのでしょうか。
そこには国同士の利害関係があり、人間の欲が絡んでくるからでしょう。
でも違う考え方をしてみると平和をつくりだす者が少ないということが言えるのではないでしょうか。

私が尊敬している先輩の牧師さんがおられます。
その先生を大きな教会の牧師をされ、その教団の責任も担っておられました。
今は島根県の山の中で郷里伝道をされています。

ある時、車でご一緒する時がありました。
その時に次のようなことを仰いました。

「私は教団の会議や教会の役員会で心してきたことはどうやったらこの会議がまとまるだろうか、
ということでした。みんな色々な考えがあり、ある時にはクリスチャンでも熱心さの余り
意見が対立し険悪な雰囲気になることだってある。
そんな時、何時も考えたのはどうやったらまとまるだろうか。
神様のみ心は何だろうか、ということでした。
勿論自分の考えもあるのですが神の御心を優先しました。
そしで、自分は神様のみ心はこうだろうと思うことを話しました。
そうすると大体の会議や役員会は最終的にはまとまって終わりました。」

と仰っていました。

平和をつくる者とは自分の考えや思いよりも神のみ心を優先させる人のことではないでしょうか。
私たちがその事を意識して人々の間に入って平和をつくる者になれたら良いですね。

神の祝福を祈っています。



2012.09.21 / Top↑
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

ローマ人への手紙8章28節


今、世界中の人の目がロンドンオリンピックに注がれています。
勝つ人、負ける人、メダルを取る人、逃す人、
その事で人々は一喜一憂しています。

選手達はこの日のためにどれだけ練習を重ねて来たことでしょう。
どんなに努力をして来たことでしょう。
精神的なプレッシャーはどんなに大きかったでしょうか。

そんな中で金メダルを取るということは素晴らしいことです。
みんなで拍手を送りたいと思います。

でも残念ながら負けた人もいます。
負けた人をマスコミは全く掌を反したように取り上げません。
オリンピックは参加するだけでは駄目なんですね。
メダルを取らないといけないのです。
それも金メダルです。

さて、信仰者の金メダルは何でしょうか。
スポーツでメダルを取ることでしょうか。
人生の成功者となって地位や名声を得ることでしょうか。
パウロという人は聖書のローマ人の手紙の中で
「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と言いました。
益というのは「キリストのようになる」という意味です。
クリスチャンであるお互いはいつの間にか、
祈りで自分の都合の良いことを神に訴えているということはないでしょうか。
そうではなくて神は人生の中で私たちを様々な中を通らせながら
キリストの姿にしようとされているのです。
神が私達に願っておられる金メダルは目に見える形で地位や名誉を得ることでも、
オリンピックで金メダルを取ることでもないのです。
私たち信仰者がキリストのようになることなのです。

私たちは生活している中でいつの間にか、そのことを忘れて
他のものを目指して走っていないでしょうか。
もう一度そのことを確認して金メダルを目指しましょう。
2012.08.10 / Top↑
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